
[ 小原 中央高速道(2025 04 12)]
小仏峠からの山道が終わり、舗装された道に出ると再び中央高速道が姿を現します。小仏トンネルは慢性的な渋滞ポイントのため、トンネル増設に合わせて前後の橋梁部分でも拡幅工事が進められていました。資材を運ぶだけでも苦労しそうな急こう配の斜面で、太く高さのある橋脚が造られていく様子を見ると、「最初から広い道路にしておけばよかったのに」とつい思ってしまいます。
政治家がよく口にする「国家百年の計」という言葉がありますが、実際に将来を見据えて計画を立てている人がどれほどいるのか、考えさせられる光景でした。

[ 小原 小原一里塚跡(2025 04 12)]
小原宿へ向かう途中、中央線のガード下に「小原一里塚」の案内があります。
しかし、一里塚そのものは中央高速道の下になってしまったと記されており、かつての甲州街道は現在の道とは別の場所を通っていたことがうかがえます。
舗装もされていない山道だった昔の街道は、時の流れとともに少しずつ位置が変わっていったのでしょう。
底沢バス停で国道20号に合流すると、小原宿はもうすぐです。
宿に入る手前には「小原の郷」という施設があり、本陣で使われていた食器や旅道具が展示され、小原宿のジオラマも見ることができます。
見学しながら一休みできる、ありがたい場所です。

[ 小原 小原宿本陣(2025 04 12)]
小原宿には本陣が現存しており、無料で見学できるようになっています。
茅葺き屋根は現在トタンで覆われていますが、建物自体は江戸時代後期のもので、神奈川県内で唯一残る本陣です。
建てられてから間取りには何度か手が加えられたようですが、大きくは変わらず、ふすま絵も当時のまま残されています。
2階はかつて養蚕に使われていた時期もあり、現在は昔の農機具などが展示されています。
2階に上がると屋根裏の構造がそのまま見え、すすで黒くなった材木や茅が、長い年月を静かに物語っています。
とはいえ、本陣といえども長い年月や地震には抗えないようで、1階・2階ともにところどころ耐震補強の筋交いが入れられていました。
昔の建物には筋交いがなかったことを思うと、現代の技術に支えられながらこれからも姿を保っていけそうです。

[ 小原 小原宿の家並(2025 04 12)]
小原宿は本陣のほかにも歴史的な建物が沿道に残っています。
残念ながら1895(M28)年に大火があったので、沿道の建物はその後に建てられた建物です。
大きな建物ですが旅籠ではなく養蚕農家として建てられそうです。

[ 与瀬 与瀬宿の国道20号(2025 04 12)]
小原宿は、江戸側から来た人や荷物を与瀬宿を通り越して吉野宿へ継ぎ立て、逆に与瀬宿は下諏訪側からの人や荷物を小原宿を越えて小仏宿まで継ぎ立てるという、いわゆる片継ぎの宿場でした。
そのため、二つの宿場の距離はわずか2キロ弱しか離れていません。
距離こそ短いものの、途中には沢へ階段で下りる場所もあり、地図を片手に歩いていないと街道から外れてしまいそうです。
相模湖駅前付近は交通量が多いにもかかわらず、歩道が途切れる箇所があるため、歩く際には注意が必要です。

[ 与瀬 与瀬宿本陣跡(2025 04 12)]
小原宿には本陣や明治期の農家が残されていましたが、与瀬宿はファミレスなどが並ぶ、いかにも現代の街道沿いといった風景です。
中央線相模湖駅が近いこともあり、建て替えのサイクルが早かったのでしょうか。
与瀬宿本陣跡は甲州街道から一段高い場所にありますが、現在は個人宅の庭となっており立ち入ることはできません。
本陣が現存する小原宿とは対照的です。
訪れたときは、街のあちこちに御祭禮の提灯が掲げられ、祭りの準備が進んでいました。
かつての宿場の面影は薄くなっていても、地域の暮らしの息づかいは今も変わらず続いているように感じられます。

[ 与瀬 与瀬神社(2025 04 12)]
お祭りは、甲州街道に面した与瀬神社のものです。
与瀬宿を少し外れた街道脇に大きな鳥居が立ち、誘われるように参道の階段を上っていくと中央高速道によって参道が分断されて、その部分には広場のような橋が架けられていました。
橋を渡った先にも勾配のきつい階段が続き、見上げると山門がようやく姿を現します。
山門にたどり着いても、さらに45度はありそうな急こう配の階段が待ち受けています。
拝殿にお賽銭を入れる頃にはすっかり息が上がってしまいますが、その代わりに相模湖を見下ろす景色が広がり、疲れを忘れるほどの眺めでした。
階段の横には迂回できる道もあるので、足腰に自信のない方はそちらを選ぶのが安心です。

[ 吉野 まるで獣道(2025 04 12)]
中央高速道に架かる人道橋を渡り、しばらく歩くと、ほぼ昔の姿をとどめていると思える道になります。
分かれ道の角には「甲州古道」と書かれた標柱が立っていますが、進行方向を示す矢印がないのが難点で、ガイドブックが手放せません。
この古道でJR中央線の上を横断します。
相模湖IC入口付近まで来ると、相模湖がよく見えるようになります。
相模湖を生み出した相模ダムは、太平洋戦争前から工事が始まり、1947(S22)年に完成しました。
ダム湖周辺には「水力発電施設周辺地域交付金事業」と書かれた消防ホース収納ボックスがあちこちに設置されており、完成から80年近く経った今も、地域がダムの恩恵を受け続けていることが感じられます。

[ 吉野 吉野宿本陣跡(2025 04 12)]
高札場跡を過ぎると、甲州街道は国道20号と重なります。
吉野宿の本陣はかつて木造5階建てという堂々たる建物でしたが、明治29年の大火で焼失してしまいました。
跡地に立つ案内板には、陽に焼けて薄くなった写真ながら、その威容をしのばせる姿が残されています。
本陣跡の向かい側には、旅籠だった「藤屋」があります。
こちらも明治29年の大火で焼失し、翌年に建てられた建物が現在は相模原市の施設「吉野宿ふじや」として公開され、無料で見学できます。
館内には、かつての木造5階建て本陣を再現した小さな模型も展示されており、失われた建物の姿を想像する手がかりになります。

[ 吉野 吉野橋(2025 04 12)]
本陣跡の甲府寄りには、1933(S8)年に完成したアーチ橋・吉野橋が沢井川を跨いでいます。
かつてここには、大月市の「猿橋」と同じ構造を持つ刎橋が架かっており、規模が小さかったことから「小猿橋」と呼ばれていたそうです。
当時は相模湖がまだ存在せず、甲州街道は現在の国道20号よりも下流側で沢井川を渡っていました。
実際に眺めてみると、現在の湖面からでもかなりの高さがあり、小猿橋の位置まで沢を下り、再び街道へ上り返すのは相当な労力だっただろうと想像できます。
今の吉野橋のありがたさが、歩いているとしみじみと実感できます。

[ 吉野 緑のラブレター(2025 04 12)]
JR藤野駅付近まで来ると、相模川の対岸の山肌に巨大な手紙が置かれているのが見えてきます。
「緑のラブレター」と名付けられた地元の方による芸術作品で、新緑の季節には“手”の部分が緑に染まり、まるで森林からのラブレターが届けられる瞬間を表現しているのだそうです。
JR藤野駅のホームからもよく見え、駅に降り立った人を迎ているようです。

[ 関野 舗装道のおわり(2025 05 03)]
中央線藤野駅から関野宿へ向かうには、国道20号から狭い階段を下り、擁壁に沿った細い道を進みます。
しばらくは両側に住宅が並ぶ舗装路ですが、単管パイプの手すりが付いた狭い橋を渡ると、道は一転して登山道のような未舗装路になります。
さらに中央線をこ線橋で越えて国道20号に戻ると、関野宿跡の案内板が現れます。
かつての関野宿は道幅が二間余り(約4メートル)で、両側に民家が並ぶ宿場町でした。
しかし明治22年とその後の二度の大火で、面影を残す建物のほとんどが焼失してしまいました。
現在は道幅が6メートルほどに広げられ、民家が点々と並ぶ静かな通りになっています。

[ 関野 関野宿跡(2025 05 03)]
名倉交差点で国道20号と別れ、樹木に覆われた急な下り坂を進むと、坂を下り切ったところで境沢を渡ります。 名前のとおり、ここは相模(神奈川県)と甲斐(山梨県)の県境を流れる川で、少し下流でダムによって水を湛えた相模川に合流します。 両岸は木々が深く覆い、訪れた時期には藤の花が枝に絡みつき、淡い紫が緑の中に静かに浮かんでいました。

[ 関野 境沢(2025 05 03)]
境沢まで下った分を上り返す急坂の途中に、諏訪番所跡があります。
番所は木造平屋建て・40.25坪の建物でしたが、明治に入り役目を終えると個人所有となりました。
明治17年には渋沢栄一の別荘として東京都北区・飛鳥山へ移築されましたが、その後の行方は分かっていないそうです。
思わぬところで渋沢栄一の登場です。

[ 関野 諏訪番所跡(2025 05 03)]

[ 上野原 疱瘡神社と塚場の一里塚(2025 05 03)]
諏訪番所跡の坂を上り、中央高速を渡ると、疱瘡神社という少し不気味な響きを持つ神社の赤い鳥居が見えてきます。
疱瘡神社はその名のとおり、疱瘡(天然痘)から村を守るために祀られた神社で、神様は越前から勧請されたと伝わります。
神社の裏手には塚場の一里塚の小山があり、古墳の一部を利用して築かれたとも言われています。
本来は旅人の休憩場所でもある一里塚ですが、疱瘡神社の前ではどうにも腰を下ろす気になれません。
上野原宿に入ると、道はまっすぐになり、両側の建物の密度もぐっと高まります。
上野原の町は河岸段丘の上に広がり、往時を思わせる建物はほとんど残っていませんが、ほかの宿場に比べれば人の気配があり、街としての賑わいが今も続いているように感じられます。

[ 上野原 名物酒饅頭(2025 05 03):写真が下手 ]
道沿いには「酒まんじゅう」の看板や幟がいくつも目に入り、昔から上野原の名物として親しまれてきたことがうかがえます。 お店の規模はさまざまです。 せっかくなので、「創業百有余年 永井の酒饅頭」と掲げられた小さなお店に立ち寄り、酒饅頭をいただくことにしました。 店内にはさまざまな種類の饅頭が並んでいましたが、ご主人のお話では「あんまん」と「みそまん」が特に人気とのこと。そこで、みそまんを頂くことに。 しっかりとした皮の飾り気のない素朴な饅頭で、百有余年変わらない味なのだろうと思った次第です。 ご主人とおばさんのお二人が手際よく大量の饅頭を作っていました。

[ 上野原 脇本陣跡(2025 05 03):ホテルが建つ ]
江戸時代の上野原宿には本陣が1軒、脇本陣が2軒ありましたが、明治・大正の火災でいずれも失われてしまいました。
街並みも大きく変わり、往時の面影はほとんど残っていません。
脇本陣があった場所には、現在はホテルが建っています。
そんな中、消防署脇の路地を少し入ったところに、奇跡的に火災を免れた本陣の門がひっそりと残っていました。
今は個人宅の門として使われているようで、離れた場所からそっと写真を撮るだけにして戻りました。

[ 上野原 富士山の頂(2025 05 03):富士見横丁から ]
上野原宿では、手前の山並みの上に富士山の白い山頂が街道からも見えるようになります。
ここまで近づくと、関東平野から眺める富士とはまるで違い、山頂だけでも迫力のある大きさです。
電柱に「富士見横丁」と書かれていることからも、地元でもよく知られた眺望スポットであることがうかがえます。
国道20号に架かる歩道橋に上れば、さらによく見えるだろうと思ったのですが、残念ながら電線がちょうど富士山の前を横切っており、視界を遮っていました。